2024年10月7日月曜日

本日のライフワークとディープニッチ

 Sonyの名機!

ECM-56A

本日、XLR化が完了。

接点磨いたり、スイッチの半導通を接点復活処理で取ると…ノイズ消えました!等メンテナンス中!


久々の通電なのでエージングも込みで通電させっぱなしで放置します。


しかしマイクと対向したときの芯の太さとピントの定まり方は絶品です。

本当に年数を感じません。


しかし、メンテナンスが非常に重要なので、ヴィンテージマイクは根気の良さも扱うには必要です。


しかし、恐ろしい程録れるので、メンテナンスしてでも使う価値はあると思います。

指向性とゲインだけ優れているのではありません。


その2点だけなら近代に生産された、電気的に安定している組み立てられたばかりの最新マイクでも充分です。

中国製でもさして日本製との優勢は感じません。


しかしヴィンテージマイクが優れているのはあくまでもその音質であり、音の捕まえ方にアドバンテージがあるというだけです。


昔放送局や音楽スタジオで従事していた当時を知る人の懐古主義のコレクションにしては、値段のつき方がおかしいと思います。高過ぎです。

しかし、それが成立!?(まぁ価値観色々ありますが)しているのは、それ以外の明らかな理由があるからです。


僕はそれこそ音質に尽きると思います。

そうです。音の質感です。

艶やかだとか、存在感が強いとか、人が弾いてる雑っぽさとか、機材が持ってる特有の高音とか。

要はひと癖あり、個性が強いこと。

これに尽きます。


こここそが大味で現代のいくら高級なマイクだろうがエンジニアの評価が高かろうが、敵わないところです。


EQだのフィルターだの位相調整だのリヴァーブやコンプなどで作り込んで熟成していく音が…


マイクを向けた時点で既にほぼ出来上がってる。事です。


嘘みたいですが、これは実際に経験しないと解らない事だと思います。


音の拡がりや奥行き、飽和感がもたらす力感。この味こそが歴代の名機の証です。


しかし、マイクを向けてヘッドホンでモニターした時点では現代の優秀なマイクとの音質差はごく僅かな変化でしかなく、結構ボリュームを上げて聴くか、HAを高めにしてクローズで録るかしないと殆ど差はないと主張する方も多くて、そう感じるのも無理は無いのです。


本当のところ、録音してミックスダウンで音を混ぜたり重ねたりしたときに初めてその差は顕著になります。

それは少しの差ではありません。小型スピーカーで小音量で聴いてもわかります、明らかに違います。

音の残り方や存在感、味付けしたフレーバーの効き方に大きな違いとやりがいを与えてくれます。


ざっくり言うと、フェーダー下げても音は萎まず後ろに下がってくれて埋もれない、フェーダーを上げればガッツリ濃く存在感があります。

そしてEQの効き方、かかり方がアグレッシブになります。概ねこのあたりで気が付く事でしょう。


そしてマスタリング等の音圧調整まで来たときのサウンドの崩れなさ。これは多くがモニター環境が悪いとか、位相が分かってない人が触るからだとか、EQのポイントが悪いとか腕前と知識、スキルが大半の問題と考えられています。

僕もそうと思っていましたが、ヴィンテージマイクや所謂長年プロ定番の名機を実際に使って初めて体感しました。

EQが位相をとかリニアフェーズを使うとかステレオイメージャーで拡げるとか…どっか行きました。


気になるポイントをEQで2箇所程ホンの少しなんとかすれば、一瞬で狙い通りのサウンドに…拡がりも出ます、ピントも合います。あっさりでした。

そりゃそうですよね。EQもダイナミクスもさわる箇所が圧倒的に少なくてすむわけですから、多少荒くたくEQしても、リミッターをハードにかけてマキシマイズしても、崩れませんでした。


それがあのとき感じた、小さな、僅かな音質の差だとは、にわかに信じられませんが、明らかにそうでした。古風な定番マイクを使っただけで、知識も経験も無いに等しいのに、悩みが解決してしまいました。数多の市販音源と遜色ないところまでは持ってこれてしまいました。


その後、古着屋さんに何故か売られていたヴィンテージマイクの名機を買って、対に買わなくてもみんな持っていてライブハウスやスタジオに行けばある現代のマイクや機材で録音から比較しながら1から録音やり直しました。

そして、現代の優秀なマイクから録音を初めてふと気が付きました。最初にマイクを向けて感じた事は…

「理想の音とは?………」

無難に録れ過ぎてイメージがわかないほどに程遠い出音でした。

それでもこの時点ではヴィンテージ個体との音質差は僅かなものです。


そこからEQしたり僅かな角度調整やHAのゲイン調整で追い込んでいく。ここからが経験と知識がモノをいうプロの領域だと思い込んでいたので、あれこれ15分くらいピアノの前であーだのコーダの…EQも絶妙に決まって、よしこれだ!と思って、


次にヴィンテージの名機をセット!


なにも考えずに、丹念にセットしたマイクの横に立てて、HAのノブをぐいっと右に………

2秒後にヘッドホンを外しました。

雷に撃たれたようなショックとある種の強烈な合点があって固まりました。


それは僕がミキシングで仕上げようとしていた音の遥かに先を行っていました。目指していたプロの音、実直な音質そのものでした。

狙いもつけていません。EQもしてません。HAも音が来てこの辺かな?で手が止まった位置。VUすら見ていません。しかし既に洗練された見事な出音に焦りショックで仰天しました。

そして次に狙いをつけようとマイクを動かしても、響きや音色がEQの用に変わるだけでそんなにサウンドが的外れにならず、神経質に狙わなくても狙い通りのサウンドになりました。

「何故だ!この作業こそがプロの為せる業ではないのか!?素人録音とプロの差がハッキリ別れるポイントじゃないのか……」そう考えて愕然としました。

それからEQ、効きの豪快さにさらに焦りました。録れてる音の密度が格段に違うことに、ここでようやく気が付きました。


ここで、鋭い方なら、マイクは保管状況があるから新旧にかかわらず…、と言うはずです。

しかし、片方は最近DTMを始めた友達が大枚叩いて買って3ヶ月も経たない防湿庫保管品、片やヴィンテージマイクは1981年製。古着屋に裸で置かれていて、中のウレタンは加水分解でボロボロ触れば崩壊のやれやれ品。


全うな理屈は全く通用しませんでした。

(それでも真のプロこそは防湿監理して大切に管理していますが)


なのにそれでもこの差は、音量やEQ、ミックスのブレンドバランスを触る程大きな違いとなり、マスタリングまで来た頃には、同じテイクを違うマイクで録っただけなのに、もはやヘッドホンの音漏れで充分にわかるほど、もはや別物でした。

ピアノも声も出た途端から明らかに音の飛び方がもう違います。

殆どEQ等もヴィンテージマイクの方はしていません。充分録れてましたから。


でも新品マイクも充分に録れているんです。音量だけは。

ではなぜEQになるのか、何故少しでも角度や距離を変えただけで、サウンドがガッツリ変わったり、逃げたりするのか。


これが音質の差か…と。思い知らされました。


ボロボロの名機の方がより遠くにマイクがあるのに、遥かにシャープに充分芯が録れて、とくにシビアに狙っても無いのに大体音のする方に何となくキュッと向けるだけでガッツリ楽器や声の有機的な音が入ってくる。


そして離して録れる副産物として、響きが自然にとれるから、より音も太く馴染みが良くなり一層の実在感が出せる(当たり前なんだけどね) 


しかしそのMixをお手本として同じテイクの現代新品マイクでMixとマスタリングまで1日がかりで使えるツール全てを駆使して追い込んで見たが、近づく事すらできなかった。

それこそ沢山大胆なEQをして派手に位相が乱れて変なピークやディップに悩まされ、音の細さにやきもきして、リヴァーブやコンプをかけて、音は太くは出来たが、あの説得力や迫力が出せず、結局自分の中では仕上げきれなかった。ヴィンテージマイクでMixした段階の音にすら到達しない。平凡で平面的な力なき音質にしかならなかった。


結局プロのエンジニアが言う、そんなの使いすぎるからそうなるんだ!


の、その言葉にすっぽりハマってしまった。悔しいけどすこしだけ勉強になった。


でもヴィンテージマイクの個々のステムをMixしている段階でフェーダーを引いた時の音の残り方やボーカルとの音の混ざり方、EQしたときの効きの豪快さ、ポイントが当たったときのサウンドの決まり方は全く異次元の違いでEQで位相がとか出くわす前に狙い通りのサウンドが炸裂しててノブを回すのを躊躇するくらい決断に勇気が要ります。

その辺りの反応や精度が全く違うので、録れてる音の質の違いがこんなに大きな差になってくる事を経験すると、その気持ちの差等の細かい音質の違いを凄く気にかける時期が、やがて訪れる訳です。


しかし、一度でもこんな経験をすれば、ミキサーに立ち上げて、EQしないと気がすまないようなステムは録音しそびれてると言うことにさっと気がつけるようになります。


そうするとマイクと楽器の音に対する向き合い方が変わってきます。

ひとそれぞれだと思いますが、僕は変わりました。


そして、何故そんなにもヴィンテージマイクに魅力があるのか、その理由は何なのか?噂か眉唾か?その真理を探る旅をここ4年程続けています。


素材から、マイクを設計と開発をした人物の心理から、製造担当者の執念と情熱から、当時の世界に向けたMade in Japanのプライドから、それらを紐解いていくわけですが、あまりにも簡単にそのマイクがいかに優れているかわかるほど、素材からコストの捌き方、人間としての人生を賭けたエネルギーと、そのあたりが技術に結実していて、その逸品に宿っています。


時代の許容範囲と人の動いていた量とかけられたコスト、新鮮な金属の純度と精錬技術等が2024年、今とは桁違いです。


それがそのままあのサウンドの違いかと推測すると、あまりにも綺麗に合点します。

組み付けの精度、金属の面積の広さ、質量、光沢の違いなど、目で見て触って、明らかに違いがあります。

これでは同じ音が出てくるわけがありませんし、デジタル技術で模倣しようもありません。物理的に、根本的に全く別物でした。


これで、次にはどの時代がピークで衰退期とその理由を探り始めました。

そしてピークと思われた絶頂の音がいかなるものか、衰退したサウンドはどんなものなのかを聴いてみたくなり、それぞれを捜して聴かせてもらい、感じた事は、


色褪せない魅力や個性とは強くて、一瞬でその人の人生の永遠のモノにならなくてはならない。


それほど人間の感性を揺さぶる強烈な棘がその人の営みや価値観をより豊かに変貌させる。それが長年を経てなお評価に値する。

それこそがヴィンテージ。

生き長らえる伝説。

今日も伝説を更新し続ける。


やはりプロフェッショナルの拘りは半端ではなく、何故ヴィンテージをこよなく愛するのか。身に染みた。


そして、僕自信もそこをもっと求めていきたい。


それは本当に素晴らしいサウンドが出せるメソッドがつまっているからだ!

2024年7月11日木曜日

僕たちの豊かさを支えていたものって一体なんだったのか。

 


2024年7月11日

City和歌山 3F


そう、ここは僕たちの青春の遊び場だったし、個人店舗も結集して個々がキラキラとしていた。


集う人の笑顔も溢れていた。

目の前の催し物広場、ガラガラ抽選会でキーホルダーが当たっただけで、ちょっと嬉しくなるくらい、希望に満ち溢れていた。


それに若者が集い、服や古着が沢山売れていたし、見知らぬ僕にウィンクを決めてくる女子高生もいた。

それくらいにここに出掛けてくることにハッピーと余裕があったのだろう。


当時は自分もそうであったと。今思うところがある。


4階はボウリング場があって賑わっていて、ボウリングの音が聴こえてきて、友達とかと、また行こうね!って、言えるだけでも幸せだった。

行きもしないのに、やっててくれるだけで活気があってみんな元気だったし、来週行こうって楽しみができる喜びもあった。


ちょっとおしゃれな鞄が売ってたり、1階の食堂で食べる380円のうどんで満たされたり、かき氷で涼んだり。


音楽教室帰りの、楽器を背負ったお姉さん達がウキウキして歩いていたり、風船片手の子供が飛びはねながら歩いていたり、ね。


本当に何気無い一瞬の出来事なんだけど、全て楽しみが詰まっていて、しっかり遊んでいたし、お陰で気持ちに余裕があり、希望に溢れていた。

お金使いすぎて財布に余裕が無くても、買いもの袋片手に、ニコニコしてた。


主婦の人も、音楽教室に通うお父さんが順番待ちしている姿さえも…


この建物の色のようにパステルカラーで明るい黄色のような感じだった。

僕も何故かウキウキしてた。


その頃のサウンドが雑踏やお店の音が、今はこの物静かな空間に響いていた。

今ならまだ思い出すことができるんだ。


でも何気無い幸せをせめて、保つことがこんなにも難しいことなのか。と今思う。


みんなが慌てるように店を出て、当たり前にあったものが、サウンドが光が、笑顔が、ひとつひとつと灯りを落としていく。

色褪せる色彩、静まる雑踏、響き渡るエスカレーターの残された作動音。


未来を信じて、生活をかけて旅立った痕はあまりにも静かに疲れはてていった。


希望よ、何処へ。


がんばり過ぎたのか。それとも単なる時代の波なのだろうか。


みんな余裕が無くなってきている。

僕はいつもここに来るとそう思う。

まるでここは時代を映す鏡のように。その時を象徴するかのように、形を遺して息を潜めている。


再び灯りがつくかどうか。行方がわからない催し物会場のレガシーな看板。

今思えば時代相応なのかな。当時のここのデザインは斬新にポップだった。だからこそ、レガシーさを感じるほど新しかった。それもワクワクの後押しだったのかもね。

それが今や、黄色いプラスティックの鎖でしきられた静寂の奥行き。かつて老若男女が小さな幸せと、ちょっとしたラッキーを求めてさ迷っていた空間。


為す術もなく置き去られた、時代の産物が通路を照らす最小限の灯りとともに、次なる音を待っている。

ただ静寂とともに、静かに、そこで。


本当に為す術もないのだろうか。

僕がここに来る理由は昔の出来事を思い出しに来ているのではない。


今という現実を、この切実な現状を全力で噛み締めに来ているのだ。


何も出来ていない自分が以下に小さな存在であるかを思い知ると共に、沢山の商いがこうして大きな希望や何気無い笑顔を支えていたという現実を、ここでは知ることができる。


そして社会とは、風潮とは、振り替えると見えてくるものがある。


でも廃れているようにも思えない。不思議な感覚にいつも陥る。

人間とは背中合わせの絶望とともに希望を持って生きれる生き物なんだと、僕は思っている。


その希望は何気無い小さな事や、人や人同士が結託し、なにか自分達で出来ることを探り、小さくてもひとつひとつコツコツと始めていくことで、明日もここがある。また次に集う心の中の約束だったり、そういった目に見えないものが希望に繋がっていって、小さな優越感や、ちょっとした避暑地というだけでも人は感謝を頂き喜びに変わっていく。


しかし、それも表裏一体だ。

まさか今こんなことになるとは、当時一体誰が想像できたことか!


でもしっかりと受けとめなければならない。

何も出来なかった1個人の行動と、この現代の極めてパーソナル化された時代現状を。


そしてそれらは、何を拐っていったのかを。知らなければならない。


そして、人間に希望を。

そんなに簡単では無いことはわかった。でもほんの些細なありふれた事だった事もわかった。


無駄だ!と思いつつも、楽しんで、答えだけを求めすぎず、ハズレても笑えるガラガラ抽選のように、正解の無い事もドキドキしながら、楽しみながらやっていくことこそが、希望を持つ道標なんだと。この静寂が静かに語りかけてくる。


希望と絶望は裏腹だ。

それも長い目で見て単なる波の引き際なのかもしれない。

大切にすべき事はなんなのか、忘れてしまったものは何か。


ここは僕にいつもそれを教えてくれる場所。


かつては僕も持っていた希望の欠片をひとつ。波をひっくり返すきっかけを教えてくれているような気もする。


僕は今、何をすべきか。

まずは希望を持とう!

2024年6月10日月曜日

みなさんこんばんは!影山ヒロノブ DA!

タイトルは、MCのあいさつより。 


4月だったかな?

支配人より、「そういえば、影山……~、、、」との話があった。


僕はLAZYやJAM Projectも好きで沢山の楽曲を聴いているのだが、純粋に影山ヒロノブさんのファンだということだ。


「影山…」の次は「ヒロノブ」だ!

僕の中ではそうなる。

えっ!ホントに!?


支配人「6月8日にファンクラブイベントがLuru Hallで決まりそうなので、宜しくお願いします」


なんですとー!!!

まぁまぁ、落ち着けよ、いゃ、落ち着け!そこから始めよう。


「ホントに?」

そんなことある?っといったら失礼なのだが、ホントに来てくれたらアツい!!!


そうこうしているうちに、残り1ヶ月。コンサート開催決定!

めちゃめちゃ楽しみだけど、それは僕だけではないはず。

気分は上がるけど、期待は高まるけども、僕の役割はいつだって同じ。

全体が盛り上がるサウンドで、僕の好きな歌声や楽曲達をファンクラブの皆様とご一緒に堪能させていただく。それだけ。


影山さんの歌と声は僕の身体の中にある。

ロードレーサー時代もよく聴いていたので、カラダの栄養の一部となっている。


マイクの選択やイコライジングは既に明白で、何を目指せばいいのかは非常にスピーディーに判断できる。身体にある色々な曲の歌声を呼び起こすだけ。


ギターサウンドも、ここぞ!と言うときには使いたいギターアンプも色々ご協力の元、調達してしまった。

カラダが本能的に求めてしまうので、手詰まりになるのは避けたい。

ファン精神とは恐ろしいものだ。


しかし、一番楽しみ方を知っているのもファンの方々だ。

客席のことは任せろ!の精神が愛情の証だ。


入場整理や座席の譲り合いまで非常にスムーズで、既に結束力が高い。

ステージを盛り上げる準備も万端だった。


しかし、いくらなんでも手放しでアーティストの声が、音が出るわけではない。そこは抜かりなく調整させていただきますが、先に予めかけていたEQはポイントはバッチリはまった!

既にあの声が、、

本物だ!間違いない!

リヴァーブもシャウトして入念に仕込んだがバッチリ!

さらにギターのパワフルな鳴りに重なっていくようにさらに追い込みをかける。


Feel so good!


tap delayもセットして、あの曲のあの部分で決めるぜっ!


リハーサルから、衰え知らずの歌唱力とギター1本で凄いグルーヴ。

コードが変わるときの景色の変わり方も鮮やかに。まるでドラムがいるようだった。(もちろんドラムはありません) 


野生の血を感じる、アツく滾る歌声は観客の心を踊らせながら、強くビートを刻んでいく。


Luru Hall史上(私が入らせてもらって以来)最もロックンロールだったのではないだろうか。




「みんなもっと気持ち表現しようよ!」

ライブに行くのも結局これ!

魂の交換だ!

ハモりでセッション!

これがライブのエネルギーだ。


We gatto Power!

(そっちは歌ってくれなかったけれど)


ありがとうございます!

「夢中になれるものが、いつか君をスゲェヤツにするんだ!」

その歌詞を胸に、釈迦力でやってきて今日僕はここに居て、まさか手元のフェーダーに影山ヒロノブさんが!


スゲェ事になってました!

最高じゃないですか。Exiting!

本当にそうだなと。


元気玉を別けて頂いたので、胸がバチバチしながらまたこれからもSparkingしていきます。


私の友人からも沢山、参加でお願いします!と問い合わせがあったのですが、生憎の即満員御礼でした(正式にはファンクラブイベントと極少数名の会場チケット販売)ので、また次回も来れなかった方のためにも、来年、再来年と続いてくれることを。願っています!


僕も更にSparkingできるように。

修行して腕研きます!


今回、来られなかった皆様へ。

配信のアーカイブが以下より、1週間の間、購入/視聴ができます。

是非、こちらでもPowerを喰らいに来てくださいませ。


ヘッドフォンやイヤホンで聴いてもらえると、神龍に出逢える(さらに幸せ)カモよ!


https://teket.jp/9700/34949

2024年5月19日日曜日

音響操作とデジタルの関係性

 


デジタルテクノロジーは、本当はね、本当に素晴らしい技術の塊です。

でも人類が頼りすぎて、その技術自体の向かう先もおかしな事になってきている。と感じる機会が増えた気がします。


本来は手仕事を上手くアシストしたり効率を高めたり、誰かに伝えるための人間の為の最適なツールだったはず…

そして芸術から交通網まで、時代を動かす統制力を持つようになった。


ここまで本当に素晴らしいこと。それらを作り上げた人々の洗練された感性、思考回路は多大な恩恵を僕たちに与えてくれる事でしょう。


しかし、それらを用いることを考慮しなければならない時が来た。

デジタル確かに便利だ。とにかく便利だ。だから目指すべき事が早いのも確か。


しかし、便利でいいのだろうか?

〔ここが今回の本題です〕

便利と良いは明確に違うもの。

早さは、人生有限の時間の中では重要。限られた時間でより多くのアクションを起こす事ができるからだ。


しかし、早さが幸せか?

なにか洗いざらい大切なものを忘れていないだろうか?


1からセッティングする事の意味。

役割分担、長所×短所=?、そこでこそ養われる人間の感覚 。

デジタルはそこが視覚化されているのが素晴らしいが、引き換えに人間は五感のセンサーを元に考慮すること、感じることを怠る。


手に取るようにデジタルはわかってしまうから。数値化や視覚化という指標は大きなアドバンテージではあるが、

音響のセカイでは音で、リズムで、手に取るように分からなければならない。体のセンサーに訴えかける音。

良い音は手に取るように表情や表現したいことがわかります。

この感覚が重要で、これを鍛えないといけないのです。


音のセカイのイコライジングもそうですよね。

そもそも何故イコライジングをするのかにも確りとした理由が様々ありますよね。

位相が被っているからずらすのに処理したり、山を作ったり、そもそもの楽器の音を引き出すのに使ったり。


PAならループバック制御もイコライジングで30~40%は解決出来ますよね。


しかし、それらは聴覚やその人の感性で感じる楽器の鳴りや音楽性を元に、違和感に対して理由を探りつつ処理していくわけで、非常に精密な作業です。

瀬戸際の調整がしばらく続くのですが、デジタルはすぐに解決案を提案してくれます。

人間は自身の判断で、ここで本当に解決できるのか。明解にできたのかをトライして結果を求めていかなければなりません。


ここを怠ってデジタルに頼りっきりなっている場合が多くなってきている気がしませんか?

僕はそう感じています。

理由は単純でしょう。面倒だからです。

それと、、「何故こうなる?」に対してハッキリと答えやすいからです。


しかし本来は、実践と模索を面倒がらずに、感覚と思考のギアを上げてトライしなければいけないですし、後者に於いて、デジタルによる数値化の説得力は一見強みに見えますが、1秒後にはもう変わってしまっているアナログの世界では全くもってそれで推し測るのはナンセンスな話です。

そんなに完璧に説明できるほど現実世界はカッチリしていません。不安定で軟らかいです。

その無限に変化しつづけるそれを五感を働かせて着いていかなければなりません。


何故変わるのか?変わってしまっては都合が悪いときのクレーム対策でしかありません。

こんな測定結果がでましたから、恐らくこうなります。


それでそうなったら誰も苦労しません。ただし人間が努力してデジタルが導きだした予想を完璧に合わせにいくことは可能です。すなわち、狙いをつけてそこに着地させれるということです。


それはデジタルの演算が凄いのではなくて人間の能力です。

そこを間違ってはいませんか?


便利でカッコいいデジタルツールスを上手く活用するのも技術です。

頼りすぎて人間のセンスを鈍らせていたら、退化していきます。

人間は常に七転び八起きで走り続けなければならないのです。

人間が鈍ったら、デジタルの勘も鈍ります。


そういう意味でアナログってとっても大切なのです。


ただ単に音が良いからとかではなくて、もっと根本的なところ、「感覚的であること。」

好奇心を掻き立て、1から磨きあげていけるからこそ、拘りの詰まった唯一無二のサウンドが生まれる。それこそがアナログの醍醐味。

これを知る人こそがデジタル技術やツールの素敵なところを享受出来て、より技術や発想を豊かなものにしていけることでしょう。


あえて使ってはいませんでしたが、初めてデジタルミキサーのEQセット保存/呼び出し機能を使用しました。


確かに非常にスピーディーでしたが、私には全く合いませんでした。

それよりメモにペンを走らせて変化するサウンドを予測し、実際リアルタイムのサウンドを丁寧に感じる方向へ持っていく方が感触は良く、結果的に音のぶれも少ないのではと思いました。同時にこのやり方をしないと何故サウンドが変化したか、理由を探れなくなる。それが恐怖です。


だから仕事は遅いです。

しかし根気よくやり方を模索しなんとか実用的なところまで準備の仕方やメモの仕方等を1から練り上げることがスゴくスゴく重要です。

ここが出来ないと役割分担すらもできなくなるからです。


ツマミが多いミキサーの前で迷子にならないために必要なことです。


必要なスキルは入念な予備知識ではないと思います。

もちろん知識は絶対に必要ですが、調べるよりも身に付ける事。


なんでも藪から棒に機能を使えば良いとかではなく、まず要求に対して必要なツールや機能を見つけること。

自ら調整し形を作りながら、手順ややり方を磨いて行く。


僕がデジタルの便利機能を頑なに使わない理由はここです。


だって便利なんですよ?

いつでも使えば良いです。


そうではなく、いろんな組み合わせで独自のスタンダードを築くことに注力したいからです。


土台は自分で作れなきゃ、相手の要求に応えることはできないから。

応えていくために僕はそんな手順ですすめさせて頂きます。


デジタルはこれからどうなっていくのかは、我々の行動と、その熱量次第です。

独りでに進化はしていきませんよ!

2024年5月13日月曜日

向き合う、そして響き合う

★日記

5月12日


さがゆき 八木のぶお 中村八大楽曲集CDリリース記念コンサートツアー2024


@Luru Hall


さがゆきさんは、ピアニストの高田ゆきさんや、Saxの登 敬三さん、Gt.清野さん等様々なアーティストとsessionまたはDuoでLuru Hallに来ていただいており、毎回様々な雰囲気で、馴染みのある曲からそうでないコアな曲から、名曲まで、いつも愛情をもって届けてくれる。


今回はハーモニカ奏者の八木のぶおさんと、アコースティックなDuo。

素晴らしいブルースハープを奏でる我が国を代表するハーモニカ奏者。


ステージ配置や、ブルースハープのセットが必要なのかを含めて準備のために参考にツアーの動画をみさせて頂いたのだが、1分でその空気に引き込まれてしまった。

ある意味非常に危険(笑)だったので、音を消音してステージの動画を最後までチェック。


すかさず思ったことは、、、

これは、直に本物の音を聴かねば!セッティングは考えようが無いと。

sessionはその場のサウンド、その雰囲気が紡ぎ出す音をなにも邪魔せず自由に鳴らす必要がある。

その為に僕のデスクがある。


ステージセットを指示通り完璧にセットするのが使命ではなく、当日のサウンドが最高潮に膨れるようにできるのなら、セッティングなんてその場次第!そこだけは柔軟でなくちゃならない。


今日もお客さんの心を占拠する洗練された音を放たなくてはならない。

そこに正解は無いが、良い演奏が確立するヒントはセッティングに隠されているので、配置だけは参考に模倣させてもらう。


演奏とは観客とのセッションを重ねて日を経ることに進化する。より重みが出るものだ。

だから当日の音(鳴り)を最大限に受け取って、それを1.7倍増しにして放つ。

Good Vibeのポイントは必ず突く事。

それこそがオーディエンスの心を衝くからだ。

非常にセンシティブに今の状況を察知するのに、過去のyoutubeの音源はなんの参考にもならない。


目前で本物の音楽を喰らえるのに、過去の栄光を目指すのでは無く、今日がまた伝説の一期一会になるようにしないと。そのままをやるだけが芸術ではない。〔その情熱を伝えること。〕それだけに注力した。

Youtubeの1分の雰囲気がすごくでていたのでね。


さがゆきさんは、奏でる曲への想いが沢山あるので、どんな曲でもギターを片手にしんみりとサウンドチェックを始めてくれる。


声がマイクに入る前からチェック・ワン・ツーのEQと僕なりのメロウなEQを決めて置いたが、マイクを入れて歌ってもらったら、見事に重なった。

ギターはマイク録り。

名機Joemeek VC3のプリアンプでSM57をセット。

エンハンサーを少し捻って、伝説のあのサウンドに。

堂々のギターサウンドでガッチリ決まる。

気がかりな事は何一つ無く、ただ鳴り渡るハーモニカとの響き合いを聴くのみであった。

後は手が勝手に動くので。


僕はブルースハープの音楽や鳴き、そしてファルセットの音や独特のスイングも大好きなんだけど、なかなかコレゾ!というのを間近で聴ける機会も本当にそう無いものなので、ブルースハープのセッティングにも力を入れた。

専用マイクを借りてきて、アンプキャビネットまで用意する事に。。。

恐らく使わないことは分かっているのだが、もし、もし、吹いてくれるのなら、八木さんのハープで聴きたいから用意だけは抜かり無く。


予定外が起こった時に、ご用意ないです。はもってのほか!


そして隙間の一瞬だけ聴かせて頂いた。とてつもなくかっこ良かった!

身体が奮えた。コレゾ!これなんだって。

もちろんアンプを使わないハーモニカの演奏も、感情を揺さぶる素晴らしい鳴きで、これが本当に美しい音楽だ。


Duoの音量バランスや感情を引き出す音量感等が今回の最大の肝の部分だな!というところで。自分も腕が試されるところ。

一番後ろに届くギリギリの音量で最大限のダイナミクスを提供するぞ!

出過ぎは厳禁、かなり攻めてみたが、やはり小さめなほど自然と耳を澄ませるのでその細部まで心に響き、音は小さくても大きく聴こえて、より強い音の部分に2人の空気を色濃く感じる事ができた。


ほとんどフェーダーはノータッチ。

それが全てを物語っていた。


僕の記憶に残るライブだった。


このCDもこのライブを聴いてから買ってじっくり楽しもう!そう決めていたので今、聴きながら、振り返りながらブログを書いている自分がいる。


言葉以上に伝わるものがある。

言葉という音だけでは現せない物語がある。


昨日のステージや、MCトーク、アフタートークでの中村八大さんとの出来事。

語り尽くせない瞬間の感情の爆発と人生の中での出会い等で埋め尽くされている感じ。


僕の34年の人生の1ページをまためくったひととき。

そんな夜でした

2024年4月29日月曜日

オーディオにおけるニーズとは?

良き鳴りとは。

綺麗に鳴る事とは、オーディオに於いて至上命題です。 しかし、{音楽を聴く}訳ですから、その演奏が“下手くそ”に聴こえるように鳴らしてはいけません。 これも当たり前ですが、残念ながらそれも起こりうることであって、それに対しての抵抗がオーディオという道な気がしています。 

 よく聞く話で、“らしく”鳴らせ。といわれるものの、現実の音を求めて極限まで音響機器の“癖”を排除すれば、録音の全てが出てくる。それが全てだ!とかいわれたりもしますが。。。 

 実際はそんなに簡単なものではありません。 そのサウンドが本当に良き鳴りか?それは別軸だと思うからです。 癖はあっていいのです。それこそ邪魔にならない程度に。スピーカーや機器の特色を特定の楽器の音や演奏に合わせて、それが重なった時、最高の一体感が生まれます。
これが良い音の正体です。
そんなに常に定量的では無く特定の瞬間だったりします。 

 {癖をもって、癖を征す} つまりは乗りこなすという事です。 

 だから、正しさだけを追求しすぎで、徹底的に癖ばかりを嫌っても、それがHi-Fi(高再現度)かと言われても、答えはNoです。 

 先程の様にそれで演奏が下手に聴こえては何の意味もないからです。 
こういう場合でも大体録音には罪は無いことが多くて、再生、つまりその録音をうまく再現しそびれていることに罪があります。 例えば、深みの無い低音の鳴りでジャズのウッドベースを聴いても、プンプン言うだけで、“おちょくったような”音でしかなくて、これではどんな名手の名演も台無し。つまり下手に聴こえます。
 低音が浅い、引き締まっているというのもひとつの癖であり、ある種のチューニングです。上記の場合において、それが重ならなかった。つまりミスマッチが起きるとこうなります。だからこそオーディオ製品はチューニンググッズまで様々な製品が数多あり、ユーザーはその使いこなしを問われているのです。 

 しかし、その音次第で下手くそに聴こえるというのなら、上手くも聴かせられるという事です。
つまり、、、 音を変える=癖をつける。ことでそれは成立します。 

 音とは空気の振動なので、ほんのちょっとしたことでコロコロ変わります。つまりは音響機器のチューニングに於いても、何か条件が変われば音も変わります。多かれ少なかれ、気付く気づかないに関わらずです。 

 しかし、それがいい方向つまり、演奏が上手く聴こえる方に変えられるかどうか。これがオーディオの真髄です。 

 機材の音が忠実になっても、それだけでいい演奏に聴こえるほど簡単な事ではありません。 だから、癖を排除し、“らしく”鳴らすだけがオーディオではないのです。 それでは単なる音に過ぎないということです。 

 オーディオは再生(再現)の儀式の事をさします。それはもちろん音楽のです。 

つまり、楽器の鳴り方やオーケストラ等の奏音の特色を、機材の特色(癖)を持って引き出す訳です。癖の無い音色なんて存在しないからです。 
 しかし、らしく鳴らす為に無色透明な音質にチューニングしがちです。そして無機質な音に陥りがちです。 演奏によっては低音が出ていた方がいい音に聴こえる楽曲もあるということですよね。 

 小さな音が響きの1滴までどこまで豊かな状態をキープできるか。それも癖だったりします。同じような音量でずっと鳴られてもあまり心地よくはないです。 

 録音がシビアでピークが大きく普通に再生するだけでは荒れた音になりやすい、三味線なども実際の生音のエッジ感を再現するのではなく、ボディの鳴りや皮の音が紡ぎ出す濃ゆいメロディ感を再生する方がより良く聴こえます。つまりHi-Fiとは違う路線でチューニングしたほうが、生き生きとした音楽再生に繋がることでしょう 

 そして音量だって大切です。 ドラムの生音がでかいからといって、スピーカーからドラムの音量で音楽をかけようものなら、先ず低音からエライことになります。続いて高音も。耳が痛くて居てられません。 小さな音量でも、その音楽の大部分、周波数バランスも含めて、丁寧に再現できなければならず、音量を上げてもそのバランスが大きく変わってはいけません。

 つまりボリュームを上げるのを躊躇うくらいに、小音量でも緻密であり、その空間に漂うような鳴りでなくてはなりません。 響きに包まれ、音が満ち溢れている状態をまず作り上げなくてはなりません。
ですが、音量を上げてしつこい、押し付けがましくなるのも、良い音ではありません。それでは五月蝿いだけです。 

 その密度の高い、心地よい響き(五月蝿くない)音質を目指すのには、沢山の創意工夫があり、考慮すべき点や儀式が多くて説明しきれません。 見た目はシンプルそうに見えても、シンプルなほど、要件は厳しく、拘りも数多く、神経質で、扱うにはあまりにも多くの知識と感覚を要します。 

 だから、マニアだのオタクだの科学者だの勝手に呼ばれますが、当然の事と思います。
 小さな変化をつぶさに捉え、慎重に丁寧に少しづつ時間をかけて変化を与えチューニングしていますから。 相当なセンスが問われる訳で、オタクであるのは前提とも言えるでしょう。 明日に答えが出るような世界ではないということを断言しておきます。 

 明日に音が良くなるかなんて知るよしも無いのです。 それよりも明日、どんな音に変化しているか。それを楽しみにしています。 それで演奏内容が良い方に変われば、音が良くなったという事です。 

 つまり〔良き鳴り〕とは、五月蝿く無くて、その音色が身体の中にまで入って来て、一体感のある有機的な楽器の鳴りがストレス無く最後まで楽しめる状態をさします。

ようするに、“人間の音”がうまく再現できなければならない。その楽曲毎に、その人の“癖”が巧く伝わる様に鳴っているという事です。 それに対する課題に対して向き合っていくのがオーディオなのです。 声なき声を聴き、物質と対話をし、数多くの素材を使いこなし、振動と電気をコントロールする。至って精神的な儀式なのだと。私は思います。